カテゴリー別アーカイブ: 日記

ネコとホセ

週末は映画「岩合光昭の世界ネコ歩き」とホセ・カレーラスのリサイタルを鑑賞した。

撮影者とネコとの信頼関係が伝わってきて素晴らしい。
一年にわたって定点観測すると、世代の移り変わりの物語が得られるのだということが分かる。我々はネコたちにも(自分たちと同じように)名前を付けて個体識別しようとするが、それも追いつかないくらい次々と世代交代していく。
あくまで映画としてほのぼのした雰囲気で統一したかったからなのか、ナレーションが一部省略したり言及しないようにしている様子が面白かった。途中でいなくなったネコがいて、死んでしまったのかもしれないけど、そこには深入りしなかったり、明らかに画面に何度も映っているのにとくに取り上げないネコがいたり、生まれた子猫の父親が誰なのかについて触れなかったり・・・小さな子どもも観る映画だろうからね。大人は察しがつくことはわざわざ説明することはない、ということなんだろう。

夜は打って変わって、ヒトの営みのある一つの粋。
三大テノールの一人とも言われるホセ・カレーラス。

司会もMCもなく、進行自体は淡々としている。美しいものにただ耳を傾ける素敵な時間だった。
アンコールでは5曲も歌ってくれ、茶目っ気のある彼の人柄も感じられた。熱心なファンも多く来ていたようだ。
ホセ・カレーラスはバルセロナ出身の方なのね。ロビーのグッズ売り場ではカタルーニャへのチャリティ(独立運動のための資金か)を謳っていたし、カタルーニャの旗の意匠をあしらった横断幕を見せていたファンもいた。政治的にホットな話題に意外なところで触れた。

レオナルド・ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』の予約は直前でも諦めない

先日イタリアを旅行したが、旅のハイライトは何と行ってもレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』であった。感想は他日書くとして、この歴史的絵画を観るための方法を書き残しておきたい。

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結婚するなら条件闘争の壁を越えなければならない

中学時代の同級生と再会した。
彼は、中学の同級生のなかで今でも親交のある唯一の友人。地元の企業に勤めているが、二年間の出向で東京に来ている。
会うのは彼が上京してすぐの4月以来だ。

東京での仕事ぶりを一通り聞いたあとは、結婚の話になった。どうやら婚活に励んでいるらしい。
婚活パーティーのようなところに顔を出し、女性と連絡先を交換して数回デートをするものの、突如向こうからの連絡が途絶えるというケースが何度も続いていて、成果は芳しくない様子。安定した職に就ているし、仕事ぶりも人柄も真面目だし、会話も普通にできるので、結婚相手の条件としては悪くないが、いかんせん二年過ぎると地元へ帰ってしまうというのが相当ネックなのだろうと思う。彼は予め自分が二年後には地元に帰ることを相手の女性に明言しているらしく(これ自体は誠実な態度で素敵だと思う)、それを理解してもらった上でその後の連絡やデートをしているので、音信不通になってしまう原因を把握しきれないで困っているようだ。

婚活はすぐれて条件闘争である。少しでもより好条件の人が現れる蓋然性が高ければ、選択は見送られてしまう。彼の成果の上がらなさは、(何か決定的なミスがあるというわけではなく)結局そういうことなのだと思う。
そして、他にもっと良い条件の人に巡り合える可能性は原理的には存在し続ける以上、選択は常に妥協的であらざるを得ない。はたしてこのように成された人生の選択は、幸福に結びつくだろうか。

そもそもなぜ結婚したいのかと問うと、「体裁がある」という答えが返ってきた。
職場でも実家でもまだ結婚しないのか訊かれるし、会社の出世には妻帯者であることが暗黙の条件のようであるらしい、ということだそうだ。また、(半分冗談だと思うが)このまま独り身で孤独死するのも厭だとも言う。
結局のところ結婚そのものにはあまり興味がないのではないかと尋ねると、彼は否定しなかった。
なら、やめればいいじゃん、である。

しかし、結婚するという規定路線を外れるつもりはなさそうなので、それでも結婚しようとするのであれば、条件闘争の壁を超えなければならないだろうと思う。
出会いの入り口がどうであれ、値踏みし合うのではない関係性を生み出せれば、選択の有り様は大きく変わる。二人で過ごすことで覚える感動であるとか共感であるとか、相手に対するもしくは相手からの好意や強い関心であるとかがあれば、きっと条件闘争の壁を乗り越えていける。
条件の善し悪しに還元できないような、あるいは条件比較すること自体が吹き飛ぶような要因で相手を選ぶ時、それは比較検討した末の妥協ではない、絶対的な選択である。そして、幸福とはそのような選択にこそ宿るはずだ。

毎日歌壇に掲載された

もう先週のことになってしまうのだけど、毎日歌壇に一ヶ月くらい前に投稿した短歌が加藤治郎氏撰で掲載された。

僕たちに切り札なんかありゃしない ほらJokerがまつりごとを説く

もちろんトランプ次期大統領のことである。
詠んだ時は投票の一週間ほど前で、ヒラリーが優勢という情勢で、私もヒラリーが勝つだろう(それはそれで面白くないけど)と思っていた。だが、蓋を開けてみるとJokerがPresidentになっちゃうというわけである。

この歌は、仲間と毎月やっている歌会のために詠んだもので、「祭り」がテーマだった。
だが、引きこもって仕事ばかりしていたので、とても祭りについて思いを巡らせる気分ではなかったので、テーマを「まつりごと」に読み替えて時々ネタを題材にして詠んだ。

大統領選を見ていて改めて思ったのが、政治(まつりごと)はまさに祭りであるということだ。ああやって、時々日常的に溜まった不満をガス抜きすることで社会の秩序を維持している。
トランプはやはりJokerだと思うけれども、彼に投票したくなってしまうほど追い詰められたり、強い不満を持っている人々が一定程度存在するということは無視できないし、耳に心地よいことを吹聴する氏を切り札として持ち上げてしまう彼らを愚かであると嗤うことも私にはできない。ただのガス抜きでは済まなくなるくらいに社会が混乱しないよう、追い詰められた人々に配慮を示す社会であってほしい。

思い立ってから早二年

ブログを書こうと思いったってから、早いもので既に二年が経過してしまった。

しっかり思考を重ね、価値のある文を書こうと思っているとなかなか書き出さない。兎にも角にも、行動を起こすことの方が大事だということで、今日から書き始めよう。年度の始めでもあることだし。(私にはあまり年度始めは関係のないことだけれども)

今年は四年ぶり八度目の誕生日を迎え、三十二歳になった。

この二年間、大きな怪我も病気もなくつつがなく過ごせた。仕事ではウェブサイトのフロントエンド制作案件をコンスタントに受託して、時に忙しくも、フリーランスの自由さを味わいつつ楽しくこなしている。納期のきつい案件では多少の苦しさも感じるが、苦痛に耐えて頑張っているという感覚は全くない。お陰様で大きな失敗をすることもなく、また報酬も十分にいただいている。仕事をご一緒してくださっている皆様には本当にありがたいと思う日々だ。

プライベートもそれなりに充実しているし、総じて幸せなのである。

「私は幸せである。」という台詞は、まともに発するのを逡巡してしまうのだが、でもやはりそうなのだ。自分のことで問題は何もないかと言われれば、そうではない。それどころか、問題だらけで、反省すること頻りであるが、幸せであることには違いない。今後は、自分の問題にどう対峙しつつ、幸せを噛み締めていくかというお話。

而立

昨年くらいからブログを書きたいと考えながら、実行に移さないままでいたのだが、三十歳を迎えたここらで重い腰を上げることにしよう。(もう数日が過ぎているのだけれど)

ブログは、かつて学生時代に始めてから数年間にわたって書いていたが、それは中二病的な不全感のはけ口でしかなかった。
そのことを自覚したために無期限停止にして、記事は全て非公開ないしは削除とした。そのような不毛で不健全な営みを繰り返すつもりはない。

今回改めてブログを始める理由は二つ。

  • 情報をアウトプットする営みを活動サイクルに加えることで、インプットを意識的に行う
  • 文章化することを通して、自身が感じたこと、考えたことを整理・再確認する

ブログの副題としているが「何を感じ、何を経験したのか」が生の総体だと考えていて、それらを噛み締めるために、書きたい。自分のための文章になるが、副次的に私は何者かを対外的に示すものにもなるだろう。

特にテーマを絞るつもりはない。
私が業としているウェブに関する技術的な話題も書くつもりだが、私が鑑賞した書籍や映画の話も書きたい。豊かな内容にしていきたい。