中学時代の同級生と再会した。
彼は、中学の同級生のなかで今でも親交のある唯一の友人。地元の企業に勤めているが、二年間の出向で東京に来ている。
会うのは彼が上京してすぐの4月以来だ。
東京での仕事ぶりを一通り聞いたあとは、結婚の話になった。どうやら婚活に励んでいるらしい。
婚活パーティーのようなところに顔を出し、女性と連絡先を交換して数回デートをするものの、突如向こうからの連絡が途絶えるというケースが何度も続いていて、成果は芳しくない様子。安定した職に就ているし、仕事ぶりも人柄も真面目だし、会話も普通にできるので、結婚相手の条件としては悪くないが、いかんせん二年過ぎると地元へ帰ってしまうというのが相当ネックなのだろうと思う。彼は予め自分が二年後には地元に帰ることを相手の女性に明言しているらしく(これ自体は誠実な態度で素敵だと思う)、それを理解してもらった上でその後の連絡やデートをしているので、音信不通になってしまう原因を把握しきれないで困っているようだ。
婚活はすぐれて条件闘争である。少しでもより好条件の人が現れる蓋然性が高ければ、選択は見送られてしまう。彼の成果の上がらなさは、(何か決定的なミスがあるというわけではなく)結局そういうことなのだと思う。
そして、他にもっと良い条件の人に巡り合える可能性は原理的には存在し続ける以上、選択は常に妥協的であらざるを得ない。はたしてこのように成された人生の選択は、幸福に結びつくだろうか。
そもそもなぜ結婚したいのかと問うと、「体裁がある」という答えが返ってきた。
職場でも実家でもまだ結婚しないのか訊かれるし、会社の出世には妻帯者であることが暗黙の条件のようであるらしい、ということだそうだ。また、(半分冗談だと思うが)このまま独り身で孤独死するのも厭だとも言う。
結局のところ結婚そのものにはあまり興味がないのではないかと尋ねると、彼は否定しなかった。
なら、やめればいいじゃん、である。
しかし、結婚するという規定路線を外れるつもりはなさそうなので、それでも結婚しようとするのであれば、条件闘争の壁を超えなければならないだろうと思う。
出会いの入り口がどうであれ、値踏みし合うのではない関係性を生み出せれば、選択の有り様は大きく変わる。二人で過ごすことで覚える感動であるとか共感であるとか、相手に対するもしくは相手からの好意や強い関心であるとかがあれば、きっと条件闘争の壁を乗り越えていける。
条件の善し悪しに還元できないような、あるいは条件比較すること自体が吹き飛ぶような要因で相手を選ぶ時、それは比較検討した末の妥協ではない、絶対的な選択である。そして、幸福とはそのような選択にこそ宿るはずだ。