実存にしか関心を持てないでいた

ここ数日、悲観的な思考に囚われていた。ここ数年間反省してきたことだが、頭の整理のために吐き出しておこう。

思えば、20代まで(あるいは現在でも)私は己の実存にしか関心を持てないでいた。
ここでいう実存とは、私は何をすべきなのか、どうすれば価値があると言えるのか、自分の価値などないのではないか、そもそもまともに生きていけないのではないか、といった問題意識に関わる事柄だ。
言い換えれば、自分の存在価値にまつわる不安にばかりフォーカスしてきたと言える。

自分の価値とは何か。それは能力が高いことであると固く信じていた。
その能力というのも限定的であって、特にお金を稼ぐ能力であった。それもサラリーマンや公務員など組織の中で発揮する能力では不十分だ。なぜなら組織の看板で下駄を履かせてもらっているのでは真に有能であるとは言えない。徒手空拳から出発して、周囲が瞠目するくらいの金銭を稼がなければならない。

同時にこうも考えていた。

この世は辛く苦しい。だから、生きていくためには相当のタフさが要求される。自分の能力が低いとは思わないが、長きにわたって苦しい闘いを続けていくほど精神的に強いとは思えない。もしかしたら、明日にでも私の心は折れてしまって、もう何も手につかなくなるかもしれない。
生きていく上ではどうしたってお金がいる。そのお金を自分で稼ぐことができない無能は、どれほどの侮蔑と呵責を受けることになるか。
そのような想像を巡らせては不安を募らせた。

これを解消して心の安寧を得るためには、事業を起こして若いうちに大金を稼ぎ出して早々にリタイアするしかないと考えた。
自分の能力を証明した上で、自らが獲得したものによってその後の生活を維持する。そうすることで何人にも文句を言わせないようにできる。そう考えた。

しかし、そのような不安からくる抽象的な動機ではうまくいくはずもない。
そもそもビジネスに興味があるわけではない。ニーズが見込める商品やサービスを考えつくわけでもない。解決したい社会課題を見出したわけでもない。稼いだ金を使って何かを手に入れたいという強烈な欲望があるわけでもない。
ただただ、やりたくないけどやらなければならない。やらなければ恐ろしく惨めな状態に陥るしかないと思い込んでいた。

結果的に、ほとんど何も動き出せず、何もできない自分にひたすら苛立ち屈辱的な思いを重ねると言う悪循環に陥っただけだった。

相当に認知が歪んでいる。

このように、実存についての不安に支配された思考ばかりしていたわけなので、もっと素朴に持っていいはず興味の幅が狭かったし、その興味に沿った造詣の深まりもなかった。
実に薄くつまらない人間のまま、ここまできてしまった。