月別アーカイブ: 2017年11月

ネコとホセ

週末は映画「岩合光昭の世界ネコ歩き」とホセ・カレーラスのリサイタルを鑑賞した。

撮影者とネコとの信頼関係が伝わってきて素晴らしい。
一年にわたって定点観測すると、世代の移り変わりの物語が得られるのだということが分かる。我々はネコたちにも(自分たちと同じように)名前を付けて個体識別しようとするが、それも追いつかないくらい次々と世代交代していく。
あくまで映画としてほのぼのした雰囲気で統一したかったからなのか、ナレーションが一部省略したり言及しないようにしている様子が面白かった。途中でいなくなったネコがいて、死んでしまったのかもしれないけど、そこには深入りしなかったり、明らかに画面に何度も映っているのにとくに取り上げないネコがいたり、生まれた子猫の父親が誰なのかについて触れなかったり・・・小さな子どもも観る映画だろうからね。大人は察しがつくことはわざわざ説明することはない、ということなんだろう。

夜は打って変わって、ヒトの営みのある一つの粋。
三大テノールの一人とも言われるホセ・カレーラス。

司会もMCもなく、進行自体は淡々としている。美しいものにただ耳を傾ける素敵な時間だった。
アンコールでは5曲も歌ってくれ、茶目っ気のある彼の人柄も感じられた。熱心なファンも多く来ていたようだ。
ホセ・カレーラスはバルセロナ出身の方なのね。ロビーのグッズ売り場ではカタルーニャへのチャリティ(独立運動のための資金か)を謳っていたし、カタルーニャの旗の意匠をあしらった横断幕を見せていたファンもいた。政治的にホットな話題に意外なところで触れた。

ZARDの「負けないで」を好きになれない理由

理由を一言でいってしまえば、綺麗事だからだ。

負けないでもう少し 最後まで走り抜けて

どうして「もう少し」などということが分かるのか。
本当に挫けてしまいそうな人に寄り添ったとき、こんな雑な励まし方はできないだろう。実にいい加減だと感じてしまう。

ただ、歌い手の人柄の良さは感じられ、坂井泉水さんはきっといい人なんだろうとは思う。それが多くの人に支持される理由の一つではあるだろう。「ちょっと落ち込んでいる」くらいのときには、心地よく響くものなのだと思う。
ただ彼女の歌声は、幾分パワーレスだ。がっちり掴んで這い上がれそうだと思わせるほどには、差し伸べてくれた手には頼り甲斐はない。

同じように人を励ます歌であれば、

  • ウルフルズ『ええねん』
  • 中島みゆき『ファイト!』
  • 森山直太朗『生きていることが辛いなら』

などが好きだ。

ウルフルズのこの歌は、バンドメンバーの復帰を祝うもの。親しく付き合ってきた濃い人間関係があってこその言葉が力を持っている。
ひたすら「ええねん」と連呼するのも心強い。励ますのは言葉そのものではない、裏打ちされた人間関係だ。
以前どこかで「『ええねん』は、“Let it be”の優れた日本語訳である」という意見を目にしたことがあるが、言い得て妙だ。“Let it be”と声をかけてくれるのは、mother Mary(聖母マリア)であるが、「ええねん」と言ってくれるは苦楽を分かち合った実在の友であるということなのだ。

中島みゆきは、苦しみのなかにいる者を甘やかさない。
結局のところは自助がなければ、苦しい状況を打開することは叶わない。かと言って、突き放しているわけではない。少し離れたところから響く声は、振り絞る力を後押しする。
諦めてはいない者に対する誠実な態度だと思われる。

苦しみもがいている者に、生半な励ましは無意味どころか逆効果だ。「お前にオレの何が分かる」と。
それを理解しつつも、苦しむ者に寄り添うためには、何ができるだろうか。森山の放つ「死ねばいい」は、外からかけてあげられるかもしれないぎりぎりの言葉だ。
また、一見すると物議をかもしそうな(実際批判が巻き起こったようだが)言葉遣いは、当事者の苦しみを理解し寄り添おうとせずに、無責任に(「あきらめるな」「がんばれ」などと)綺麗事ばかり投げてくる連中に対する怒りの代弁である。

運慶展

東京国立博物館で開催されている「運慶展」を観てきた。

如来像より、四天王像の方が、それよりさらに実在人物をモデルにした像の方が、実在感が強くより面白かった。
いわゆる「仏像」と聞いて思い浮かべる大日如来や観音菩薩は、どれも穏やかな表情として彫り出されているために面白みに欠ける。それよりも四天王像の方が、表情にもポーズにも動きがあって楽しめる。
もっと知識があれば、如来像も微妙な表現の違いを理解できて楽しめるようになるのかもしれないとは思った。

白眉は無著像だった。
顳顬や手の甲に浮き出た血管まで繊細に掘り出されていて、嘆息するほど見事な技が感じられると同時に、像全体としてそこに血の通った人間が立っているかような存在感を放っている。相対すれば温かい人柄まで感じられそうな佇まいである。

運慶の父である康慶は、法相宗の祖なる僧侶たちの坐像を彫っている(法相六祖坐像)が、これもまた実に見事に個性的に彫り上げており、ずっと観ていても飽きることがない。人間への深い観察と、慈しみとでも言えそうな関心を汲み取ることができる。

運慶作の無著像・世親像からは、高い技術とともに慈しみに満ちた人間への眼差しをも、師である父親から受け継いだであろうことが感じ取れた。

レオナルド・ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』の予約は直前でも諦めない

先日イタリアを旅行したが、旅のハイライトは何と行ってもレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』であった。感想は他日書くとして、この歴史的絵画を観るための方法を書き残しておきたい。

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