中曽根康弘の葬儀費用について考えてみた

中曽根康弘元首相の内閣・自民党合同葬の費用として、政府から約9600万円が支出されることが閣議決定された。
あちこちから高すぎるという批判が上がった。私も反射的に「高すぎるだろう、ふざけるな」と思った口である。
ただ、海外からの要人も弔問に訪れるし、故人の功績を考えれば当然だと意見も散見されたので、ちゃんと調べないで反射的に批判するのはよくないなと思って、調べて考えてみた。

考えるにあたってのポイントは以下だろう。

  • 元首相の葬儀として内閣・自民党合同葬が行われるのは一般的なのか
  • 過去の内閣・自民党合同葬の支出額はいくらなのか
  • このコロナ禍において大規模に実施すべきかのか

元首相の内閣・自民党合同葬はわりと普通

近いところでは、元首相である宮澤喜一、橋本龍太郎、鈴木善幸、小渕恵三について内閣・自由民主党合同葬が行われている。
中曽根康弘はこれらの人物たちと比して、同じように内閣・自民党合同葬を行うに相応しいのかどうか。明確な基準はないのだろうが、在位日数から考えてもそれほどおかしいことではなさそうだ。中曽根氏は在位日数1806日で歴代五位、上述の人物たちの誰よりも長く首相の座に就いていた。長く務めたから偉いわけではないけれども。

では支出金額は妥当なのか。すぐに見つけられる信頼できるソースは、2007年に死去した宮澤氏の葬儀のものしかなかった。
平成19年度一般会計予備費使用総調書及び各省各庁所管使用調書(PDF)
これによると、

「故宮澤喜一」内閣・自由民主党合同葬儀に必要な経費 76,960千円

とある。
ソースをみてないが、橋本氏のときは7700万円、鈴木氏は5549万円、小渕氏は7555万円だという記事もみた。
これらに比べると、中曽根氏の9600万円はいくぶん高額ではあるけれども、氏の功績を高く評価しているというのであれば、べらぼうに高い、というわけではなさそうだ。(高く評価することが妥当かどうかは知らないが)

このコロナ禍でやるのか

首相経験者を内閣・自由民主党合同葬で弔う、というのは慣例にしたがっており、政府支出額も桁違いに大きいとは言えないということが分かった。

では、もう一点気になる、このコロナ禍の情勢で実施するのかについて考えたい。いまだ収束したとは言えず、感染拡大を防ぐために人が集まる催事が回避されるべき状況で実施するのはおかしいのではないか。だいたい中曽根氏が死去したのは昨年11月29日である。葬儀をするにしては遅すぎないだろうか。

宮澤氏は、2007年6月28日に死去し、8月28日に実施されている。(ちなみに葬儀委員長は当時首相だった安倍晋三氏)
橋本氏は、2006年7月1日に死去し、8月8日に実施。(葬儀委員長は小泉純一郎氏)
鈴木氏は、2004年7月19日に死去し、8月26日に実施。(葬儀委員長は小泉純一郎氏)
小渕氏は、2000年5月14日に死去し、6月8日に実施。(葬儀委員長は森喜朗氏)
いずれも死去から1-2ヶ月で実施されている。

明らかに遅すぎると思ったら、加藤官房長官が記者会見で当初は3月に予定していたものが感染状況の拡大で延期したとのこと。
なるほど。ただ、それにしても3月だと死去から3ヶ月以上経過しているわけなので、遅いことは遅い。まぁ、年末年始を挟んでいることだし、そこはいいとしよう。

ところで、コロナで延期したものを実施することにしたということは、現状では催事を回避すべき状況から脱したという認識なわけである。
政府は9月19日から、イベントの人数制限を緩和している。それまで屋内のイベントは5000人を上限としていたが、当面11月末まで収容人数の50%に変更している。ぎゅうぎゅうに密集した状態を作るのはダメだけど、大規模なイベントをやってもいいということだ。
これを踏まえると、延期していた葬儀を10月に実施するというのは、筋が通っている。ちなみに会場の日本武道館の収容人数は14000人くらい。
ただし、イベントの人数制限およびその緩和が感染防止の観点から適切なのかは別の問題。

以上、結論としては、中曽根康弘元首相の内閣・自民党合同葬の費用として、政府から9600万円くらい支出することはそれほどおかしなことではない、ということになる。

「高い」というのは民衆の声としてはあるよね

ただ、多くの人々(私もだが)が反射的に「高い」と思い、その声がそれなりに盛り上がったということは意味のあることだと思う。

葬式に9600万円という額が、ひどく高いと思うのは庶民的な感覚だが、政府支出について考える際にその庶民感覚をまるごと持ち込んでいいわけではない。それはそうなのだけど、そのように人々が怒りと共にこの件について反応していることには一顧したい。
要するに、それだけ人々が政府に対して不満や不信を持っているわけなのである。自分たちの生活は苦しく、それに対して十分な手当てがなされていない、関心が払われていないと感じているのであれば、税金から賄われる為政者の葬儀費用に文句をつけたくもなる。

ましてや、自助を強調する首相の施政下で、かつて同じように「小さな政府」を志向して民営化の断行で腕を鳴らした元首相の葬儀が、大規模に執り行われるとなれば、すんなり受け入れられない気持ちになるのも無理はない。

冷静さや理知さを欠けていることは否めないが、市民の抵抗あるいは怨嗟の声としては、それ自体正当であると考える。なので、人々はぎゃあぎゃあ騒げばいいと思う。
政府はそういう声があることに耳を傾けて、決定内容の妥当性を丁寧に説明すべきだろう。その上で、庶民の声は庶民の声として、ときには無視して、本当にやるべきだと考えることを実行していけばいいと思う。

「国に貢献した人の葬儀の金額にガタガタぬかすな」とか「弔問外交を知らんのか」などという見下すような発言で、批判する者を叩いてよいとは思わない。

功績ある人物を弔うのは悪いことではない。それにしても、情勢を鑑みて規模を小さくする、あるいは新しい様式でやるなどを検討したってよいはずだ。そういうことを全く考えてもいないということに、国民を下支えすることに関心がない、社会を保全しようとする気がない、という姿勢が透けて見えるわけだ。そういうことに怒っている。

animation-timing-functionのstepsでjump-キーワードが使えない場合

animation-timing-functionにstepsを使うことで、CSSアニメーションをイージングではなく段階で変化させることができる。stepsにはjumptermというのを指定することで、0%と100%を停止点として使用するかどうかを選択できる。

animation-timing-function: steps(5, start);
// 20%, 40%, 60%, 80%, 100%

animation-timing-function: steps(5, end);
// 0%, 20%, 40%, 60%, 80%

animation-timing-function: steps(5, jump-none);
// 0%, 25%, 50%, 75%, 100%

jump-noneを指定すると、0%, 25%, 50%, 75%, 100% の五段階でアニメーションされる。感覚的には0%と100%の状態が見えるのがありそうなケースなので、jump-noneが最も使い勝手が良さそうに思う。
だが、Can I useを見ると、Safari(iOS Safari)では、2020年9月のリリースされたver.14でサポートされたばかりようのだ。なので、jump-noneを使わない方法を考えたい。

結論を言えば、keyframesの方を書き換えることで実現できる。

See the Pen
without jump-none on animation-timing-function
by HieroglypH (@hieroglyph3)
on CodePen.

上記は、青いゲージのwidthが0%〜100%に変化するCSSアニメーションだ。
steps(5, jump-none)と同じ動きを、jump-noneを使わないで実装しようと思うと、keyframesの100%は、125%状態のスタイルを書く。(逆に言うと、80%時点で100%に達するように書く。)

もちろん、これは段階数が5の場合だ。
4段階なら、100%時点で133.33…%状態のスタイル
6段階なら、100%時点で120%状態のスタイル
keyframesを工夫すれば、jump-noneは使わなくても概ね乗り切れるかもしれない。

一人法人は自分の給与は極限まで下げた方がいいのだが

コロナ禍の影響なのか、たまたま引き合いのきた案件のタイミングなのか、今年の売上は昨年に比べて減少している。今年度の自分への給与はかなり上げたので、結果として法人の利益がなくなってしまいそうだ。

私のように法人成りしたフリーランスの場合、法人の資産も全て自分の資産だと言える。法人の利益が大きくなると法人税が高くなる一方で、自分への給与を増やして法人の利益を圧縮すると、法人税は下がるが所得税が上がる。
税金等の支払いを抑えて手元に残る現預金をできるだけ多くしようと考えると、どのくらいバランスが落とし所なのだろうか。結論としてはかなり明快で、自分への給与は極限まで下げた方がいい。法人成りする際に、いろいろシミュレートして分かった。

税率の上限が法人税より所得税の方が高いということもあるが、それよりも重要なのは社会保険料だ。給与を上げていくと、社会保険料負担がものすごい勢いで上がっていく。健康保険料・厚生年金保険料は労使折半だが、一人法人では企業負担分も自分の負担だ。

とはいえ、給与が少なすぎると生活できない。
一人法人なので法人の金も自分の金だが、生活費に使ってしまうと損金算入されないどころか、自分への給与とみなされてしまう。所得税の修正申告をしないといけなくなるだろう。あとで高くつく。
というわけで、それなりの金額を給与として払い出すことにしている。法人の預金口座で眠らせておくのも勿体ないしね。しかし、翌年の売り上げがどのくらいなるのかあまり予想がつかないので悩ましいところだ。

実存にしか関心を持てないでいた

ここ数日、悲観的な思考に囚われていた。ここ数年間反省してきたことだが、頭の整理のために吐き出しておこう。

思えば、20代まで(あるいは現在でも)私は己の実存にしか関心を持てないでいた。
ここでいう実存とは、私は何をすべきなのか、どうすれば価値があると言えるのか、自分の価値などないのではないか、そもそもまともに生きていけないのではないか、といった問題意識に関わる事柄だ。
言い換えれば、自分の存在価値にまつわる不安にばかりフォーカスしてきたと言える。

自分の価値とは何か。それは能力が高いことであると固く信じていた。
その能力というのも限定的であって、特にお金を稼ぐ能力であった。それもサラリーマンや公務員など組織の中で発揮する能力では不十分だ。なぜなら組織の看板で下駄を履かせてもらっているのでは真に有能であるとは言えない。徒手空拳から出発して、周囲が瞠目するくらいの金銭を稼がなければならない。

同時にこうも考えていた。

この世は辛く苦しい。だから、生きていくためには相当のタフさが要求される。自分の能力が低いとは思わないが、長きにわたって苦しい闘いを続けていくほど精神的に強いとは思えない。もしかしたら、明日にでも私の心は折れてしまって、もう何も手につかなくなるかもしれない。
生きていく上ではどうしたってお金がいる。そのお金を自分で稼ぐことができない無能は、どれほどの侮蔑と呵責を受けることになるか。
そのような想像を巡らせては不安を募らせた。

これを解消して心の安寧を得るためには、事業を起こして若いうちに大金を稼ぎ出して早々にリタイアするしかないと考えた。
自分の能力を証明した上で、自らが獲得したものによってその後の生活を維持する。そうすることで何人にも文句を言わせないようにできる。そう考えた。

しかし、そのような不安からくる抽象的な動機ではうまくいくはずもない。
そもそもビジネスに興味があるわけではない。ニーズが見込める商品やサービスを考えつくわけでもない。解決したい社会課題を見出したわけでもない。稼いだ金を使って何かを手に入れたいという強烈な欲望があるわけでもない。
ただただ、やりたくないけどやらなければならない。やらなければ恐ろしく惨めな状態に陥るしかないと思い込んでいた。

結果的に、ほとんど何も動き出せず、何もできない自分にひたすら苛立ち屈辱的な思いを重ねると言う悪循環に陥っただけだった。

相当に認知が歪んでいる。

このように、実存についての不安に支配された思考ばかりしていたわけなので、もっと素朴に持っていいはず興味の幅が狭かったし、その興味に沿った造詣の深まりもなかった。
実に薄くつまらない人間のまま、ここまできてしまった。

新年会

先日、先輩が経営する会社の新年会に呼んで頂いたので参加してきた。
新年会では美味しいすき焼きを食したが、その前後に彼が宿泊しているホテルの部屋にお邪魔した。スイートルームで大変眺めが良い。
応接室では、(普段は主にリモートで仕事をしている)複数人のスタッフが集まって会議&作業を行っており、なるほどスイートルームはこうやって使うのかと納得した。部屋の広さを持て余すことなく活用しているし、ホテル代を文句なしに経費として計上できる。

こうして金回りの良い人と交流すると、お金があればできることが増えるし、より快適に過ごすことができるという当たり前のことを、臨場感を以って再認識する。
そして、経済活動に精を出そうという意欲が湧いてしまうのである。
そういう凡庸な自分の煩悩に少々嫌気は差すが、人とはそういうしょぼいものだし自分も例に漏れないと穏やかに思うようになった。

いつもと違うことをすると、少しいつもと違う心持ちになる。

寝正月を越えて

子供の頃からだが、私は正月というものがあまり好きではない。
あの弛緩した空気感が気に入らない。
いまやらなければならない事柄があるわけでもなく、 敢えて何かを行うべき必然性がないために、 結局のところ何かなすこともなく時が過ぎていく虚しさを覚える。

一方で、年の瀬の忙しない空気感は好きだ。
仕事納め、年越しへと向かって物事を収斂させていく、あるいはさせていかなければならないという緊張感が心地よい。
その一年を振り返り、記憶を整理し直すという行為も悪くない。

さて、今年の正月は絵に描いたような寝正月であった。
生産性の無さを感じてしまって気が晴れないのであるが、大切なのは客観的に計測可能な生産性ではない。そのようなものに振り回されずに、心の向くままに振る舞い、心に起こることを味わうことである。

漫然と昨日の続き、昨年の続きを演じることのないよう、放置していたブログを書くなどしてみた。
自分の感じたこと、考えたことをもっとアウトプットしていこう。敢えて立ち止まって言語化することで、不毛な妄想のループから抜け出し、少し違う位置へ進んでいこう。

ネコとホセ

週末は映画「岩合光昭の世界ネコ歩き」とホセ・カレーラスのリサイタルを鑑賞した。

撮影者とネコとの信頼関係が伝わってきて素晴らしい。
一年にわたって定点観測すると、世代の移り変わりの物語が得られるのだということが分かる。我々はネコたちにも(自分たちと同じように)名前を付けて個体識別しようとするが、それも追いつかないくらい次々と世代交代していく。
あくまで映画としてほのぼのした雰囲気で統一したかったからなのか、ナレーションが一部省略したり言及しないようにしている様子が面白かった。途中でいなくなったネコがいて、死んでしまったのかもしれないけど、そこには深入りしなかったり、明らかに画面に何度も映っているのにとくに取り上げないネコがいたり、生まれた子猫の父親が誰なのかについて触れなかったり・・・小さな子どもも観る映画だろうからね。大人は察しがつくことはわざわざ説明することはない、ということなんだろう。

夜は打って変わって、ヒトの営みのある一つの粋。
三大テノールの一人とも言われるホセ・カレーラス。

司会もMCもなく、進行自体は淡々としている。美しいものにただ耳を傾ける素敵な時間だった。
アンコールでは5曲も歌ってくれ、茶目っ気のある彼の人柄も感じられた。熱心なファンも多く来ていたようだ。
ホセ・カレーラスはバルセロナ出身の方なのね。ロビーのグッズ売り場ではカタルーニャへのチャリティ(独立運動のための資金か)を謳っていたし、カタルーニャの旗の意匠をあしらった横断幕を見せていたファンもいた。政治的にホットな話題に意外なところで触れた。

ZARDの「負けないで」を好きになれない理由

理由を一言でいってしまえば、綺麗事だからだ。

負けないでもう少し 最後まで走り抜けて

どうして「もう少し」などということが分かるのか。
本当に挫けてしまいそうな人に寄り添ったとき、こんな雑な励まし方はできないだろう。実にいい加減だと感じてしまう。

ただ、歌い手の人柄の良さは感じられ、坂井泉水さんはきっといい人なんだろうとは思う。それが多くの人に支持される理由の一つではあるだろう。「ちょっと落ち込んでいる」くらいのときには、心地よく響くものなのだと思う。
ただ彼女の歌声は、幾分パワーレスだ。がっちり掴んで這い上がれそうだと思わせるほどには、差し伸べてくれた手には頼り甲斐はない。

同じように人を励ます歌であれば、

  • ウルフルズ『ええねん』
  • 中島みゆき『ファイト!』
  • 森山直太朗『生きていることが辛いなら』

などが好きだ。

ウルフルズのこの歌は、バンドメンバーの復帰を祝うもの。親しく付き合ってきた濃い人間関係があってこその言葉が力を持っている。
ひたすら「ええねん」と連呼するのも心強い。励ますのは言葉そのものではない、裏打ちされた人間関係だ。
以前どこかで「『ええねん』は、“Let it be”の優れた日本語訳である」という意見を目にしたことがあるが、言い得て妙だ。“Let it be”と声をかけてくれるのは、mother Mary(聖母マリア)であるが、「ええねん」と言ってくれるは苦楽を分かち合った実在の友であるということなのだ。

中島みゆきは、苦しみのなかにいる者を甘やかさない。
結局のところは自助がなければ、苦しい状況を打開することは叶わない。かと言って、突き放しているわけではない。少し離れたところから響く声は、振り絞る力を後押しする。
諦めてはいない者に対する誠実な態度だと思われる。

苦しみもがいている者に、生半な励ましは無意味どころか逆効果だ。「お前にオレの何が分かる」と。
それを理解しつつも、苦しむ者に寄り添うためには、何ができるだろうか。森山の放つ「死ねばいい」は、外からかけてあげられるかもしれないぎりぎりの言葉だ。
また、一見すると物議をかもしそうな(実際批判が巻き起こったようだが)言葉遣いは、当事者の苦しみを理解し寄り添おうとせずに、無責任に(「あきらめるな」「がんばれ」などと)綺麗事ばかり投げてくる連中に対する怒りの代弁である。

運慶展

東京国立博物館で開催されている「運慶展」を観てきた。

如来像より、四天王像の方が、それよりさらに実在人物をモデルにした像の方が、実在感が強くより面白かった。
いわゆる「仏像」と聞いて思い浮かべる大日如来や観音菩薩は、どれも穏やかな表情として彫り出されているために面白みに欠ける。それよりも四天王像の方が、表情にもポーズにも動きがあって楽しめる。
もっと知識があれば、如来像も微妙な表現の違いを理解できて楽しめるようになるのかもしれないとは思った。

白眉は無著像だった。
顳顬や手の甲に浮き出た血管まで繊細に掘り出されていて、嘆息するほど見事な技が感じられると同時に、像全体としてそこに血の通った人間が立っているかような存在感を放っている。相対すれば温かい人柄まで感じられそうな佇まいである。

運慶の父である康慶は、法相宗の祖なる僧侶たちの坐像を彫っている(法相六祖坐像)が、これもまた実に見事に個性的に彫り上げており、ずっと観ていても飽きることがない。人間への深い観察と、慈しみとでも言えそうな関心を汲み取ることができる。

運慶作の無著像・世親像からは、高い技術とともに慈しみに満ちた人間への眼差しをも、師である父親から受け継いだであろうことが感じ取れた。

レオナルド・ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』の予約は直前でも諦めない

先日イタリアを旅行したが、旅のハイライトは何と行ってもレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』であった。感想は他日書くとして、この歴史的絵画を観るための方法を書き残しておきたい。

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