先日、国立新美術館で開催されている『ミュシャ展』を観た。
ミュシャ展はそれなりの頻度であるような気がするけれど、今回の展覧会はいつもと違うらしいと聞いていた。ミュシャといえば小綺麗で洒落たポスター風絵画を思い浮かべる。好きな人は結構多い気がするし、私も嫌いではない。数年前のミュシャ展では気に入った絵のポストカードを何枚か購入した。でも、何度も足を運んで見るようなものでもなく、正直なところ一度見た絵は次は本物じゃなくてもいいよねという感じがする。ミュシャの絵は美しいけれど、強度が足りない、そんな印象。でも今回の展覧会は違うらしい。
目玉は晩年に描かれた『スラヴ叙事詩』という作品群。彼が祖国チェコに戻って描いた、自らのルーツであるスラヴ語派の民族統一性を訴える絵画である。
まず、一枚目の絵『原故郷のスラヴ民族』に瞠目した。
駅に掲示された告知ポスターに採用されていた絵であったが、そのポスターからも画家の意志の凄まじさを感じていた。実物は思っていたよりもずっと大きなものであったこともあって、感動を覚えた。描かれた人物の眼力に、重く強い力を感じた。
ところが、そのような感動は三枚目くらいまでであった。スラヴ叙事詩は20連作なのだが、他は20世紀に描かれたにしては普通の歴史画としか思われなかった。それぞれ美しさはあるし、好きかどうかと訊かれれば好きなのだが、初めの感動は薄らいでいった。
そういえば、最初の三枚の絵は、情景描写の上に、アップの人物を重ねるという独特の表現が使われていた。独特だと思ったが、映画やテレビ番組のハイライト映像でありそうな、実に現代的で大衆的な表現だとも思った。もしかすると、今の我々が受容し慣れた表現形式の先取りなのかもしれない。そう考えると、先見性があるとも言えるし、むしろ逆に軽薄な感じもした。
印象深かったのがスラヴ叙事詩の最終作『スラヴ民族の賛歌』である。
侵略と支配を被り続けてきたスラヴ民族の愛郷心を喚起し、同胞たちの輝かしい未来を予見しようとする作品である。これが描かれたのが1926年。
その後、彼の祖国チェコは、ナチスに併合され、さらに大戦後はソ連の支配下に入った歴史を思うと、この壮大に描かれたミュシャの集大成に悲哀を感じずにはいられない。
当然のことながら、民族の統一性などというものはロマン主義的幻想である。
ミュシャが魂を込めたスラヴ叙事詩は、彼の執念を残しつつもどこか上滑りしているようであった。抜群に美しいポスターを描く腕には、テーマが重すぎたのではないか。